マニキュア塗ってブログ書いたから今日が終わるし今から今日が始まるんだよ

 

誰ともおんなじ時間過ごせないけど私が私で過ごせているのであんまり問題ないかな?

 

最近人の死について考えさせられる機会が多々あり、私いつの間にか死にたいと思わなくなっていたことに気がついた。でもそうだ、いつ死んでも構わないに気持ちが変わったんだってことも思い出した。死にたいとは思わない、でもいつ死んでもいいの。明日でも今日でも今でも。生きてるからいつか死ぬの"いつか"はいつでもいい。でもなるべく迷惑かけない場所がいいな、なんて思うのは贅沢だろうか。死に場の希望調査。

 

社会的に生きていく分にはひとりぼっちとは言えない関係性を職場でちまちまちまちまつくり、なんなら休みの日に一緒にお出かけできる人もいる。気楽に仕事ができる姿勢の自分で仕事に向かい、その私にみんな合わせてもらっている。私が周りに合わせて私を変えるの結構無理だと思ったので、私が先に私を変えておいたの。人付き合いを気軽に考えられると仕事に行って仕事ができるからいいね。仕事に行って人付き合いするとか無理無理。対人支援しといて何言ってんだろ。

 

先日大森さん以来の、生きているからこそ感じるそのままの感情や希望を言葉にすることがすごく丁寧で誠実な人に仕事で会った。正確には誘われて会いに行って話を聞いてきた。背中を押されて帰ってきた。自分のやっている仕事の正しさは永遠にわからないし評価なんて一切されないし出来ないけど、目指す先は幸せだけだと信じられるようなきっかけになった。幸せなくして生きている人の支援なんてないよな。泣いちゃう日もあるけど頑張ろう。私が生きていなきゃ相手に生きた生身の幸せが届けられるはずないと思った。些細なことも捨てないよ。生きる幸せの先はいつかの死につながるけど、生きる幸せが死ぬときに恐怖に変わるなんてことは絶対になくて、生きる幸せがそのまま死ぬ幸せにつながるようにできると、生きると死ぬは別物ではないんだと再認識された。呼吸して生きてるふりして生きていない人は死んだことにすら気がつかないんだよ???生きていた人こそいつか死ぬんだよ。過ぎ行く一瞬一瞬生きながら隅々まで私で生きようね。ちゃんと私は私のままで死のうね。いつかちゃんと死はくるから。

 

多分根本的な私はいつもあんまり変わらないんだけど、長い期間言葉にしないと中に閉じこもっちゃうのかはたまた言葉にしない自分自身に呆れてどこかに飛び出しちゃうのか、行方がわからなくなっちゃうこと結構あるんだけど、やっぱり私は私と話すと私でしかないんだよね。

 

最近ますます、「好きな人いる?」と聞かれたとき"大森靖子さん"としか言えなくなっている自分がいる。そのくせ大森さんには何にも私を発信しないの。こんな好きちょっと卑怯だと思うこともある。言葉の好きの重さってわかんないし相手に何も伝えないならなおさら。でも好きな気持ちはずっとある。もう本当にいつでもどこでも誰といても大森さんが好きな気持ちはずっとある。体の中に大森靖子って臓器が増えているんじゃないかって思うくらい確実に私の中にある。好きだから好きでいて好きって言うの。

 

真面目に不真面目してたり、その逆だったり、バカみたいに能天気だったり、たくさん眠れる私でも大丈夫じゃない日があって、そんな日は音楽とその音楽を作った人に助けてもらっている。

 

電車賃ケチってごめんね。終電の時間気にしてごめんね。移動時間気持ちが折れちゃってごめんね。どんなに楽しみでも自分と戦いながら頑張って向かう日があったりするから応援してね。応援しにいくから。

 

久しぶりのブログ、おーしまい

まったねー